今月のリレー対談

今月のリレー対談

 

    時論公論


晩節を汚した住友三井元頭取 西川善文
すみやかに顧問を退陣せよ!

ジャーナリスト 本瀬 顕



ウォール街は日本の金融界を代表する“仕事師”西川を必要とした時期があった。
西川がいまだ三井住友の顧問として金融界を牛耳ろうとしているのも、ウォール街の呪縛ともいえる。
すでに「過去の人」であることを本人は認識すべきだろう。

■金融界で“ユダ”の異名

日本郵政が2010年5月、大阪市北区の大阪中央郵便局と名古屋市中村区の名古屋中央郵便局の再開発計画を延期する方針を次々に明らかにした。
切歯扼腕でこのニュースを聞いたのは前社長の西川善文(71)だった。
東京中央郵便局を含めた3都心の高層ビル建築などによる再開発が西川による民営化を象徴した新路線だったからだ。 「最後のバンカー」ともてはやされた金融界から「ユダ」呼ばわりされても郵政民営化にかけた西川。 挫折すると古巣の三井住友銀行に顧問として戻り、歯ぎしりすることに自己矛盾はないようだ。 金融界で熾烈な戦いをくぐり抜けて培った強烈な勝ち気が晩節を汚しはしないかと心配する政財界人は少なくないが、西川の場合、そんな単純なものではないようだ。
2005年9月、郵政選挙で小泉チルドレンが大量当選したとき、米国のジャーナリズムで「3兆ドルが日本からやってくる」と騒がれた。 ブッシュ前大統領と盟友とされた当時の首相、小泉純一郎が郵政省を解体することで、200兆円ともいわれた郵貯マネーが米国の金融資本に投資される筋書きがささやかれていたためだった。

自民圧勝で郵政民営化法が成立した。そして、11月に発足する日本郵政の初代社長に内定したのが西川だった。サプライズ人事だった。
全国津々浦々にネットワークを張り巡らせる巨大公的金融の郵貯と郵便保険の民営化は、既存民間金融機関の事業を飲み込むおそれがあった。 郵政民営化が俎上に上がったときから銀行協会会長として痛烈な批判を繰り返していたのも西川だった。それが、敵のトップになったのだ。

三井住友銀行本店 金融業界を驚かせた後で、疑念も渦巻いた。
後に米国の巨大投資銀行、ゴールドマン・サックスと西川の関係が取りざたされた。 敵陣だった西川に民営化を持ちかけたのは、小泉政権末期の金融相、竹中平蔵。竹中には西川に貸しがあった。 それをよいことに正面突破を試み、西川を籠絡したといわれる。
郵政選挙の前哨戦が激しさを増した2005年夏、三井住友フィナンシャルグループ(SMBC)の頭取だった西川は、累積する不良債権にあえいでいた。 外資の導入による体力増強でバランスシートを保つことが急がれ、欧米の投資銀行や商業銀行へ秘かに増資引き受けを打診していた。 興味を示したのがゴールドマン・サックスだった。 しかし、日本は、さらに不況が深刻化しSMBCを含め金融機関の体力が低下するとみられていたため、慎重な姿勢は変わらなかった。
そこで登場したのが竹中だった。選挙が終わった年の暮れだった。
ブッシュ政権で財務長官を務めたポールソンがゴールドマン・サックス会長として、後のニューヨー証券取引所のトップのジョン・セインを伴って来日、西川と会談を持った。 そこに竹中が加わり、SMBCが生き延びることを約束したといわれている。

■安宅産業倒産処理で頭角

この極秘会談直後にゴールドマン・サックスによるSMBCへの増資が決定。 口添えが本当なら一国の金融担当大臣による特定金融機関への保証になり、これほど強いものはなかった。 当時、会談は表面上、「国際金融情勢の意見交換会」とされたが、SMBCと同様に破綻と合併の間を揺れ動いていた金融関係者は、竹中の口添えがあり増資が決まったことを信じて疑わなかった。
西川が増資から5年後、借りを返すために全国銀行協会会長として郵政の民営化に対して批判した「民業圧」の持論を曲げて竹中の頼みを受け入れたのが、郵政会社への初代社長就任だった。 一方、辣腕投資銀行トップから世界の金融市場を牛耳る米財務長官となったポールソンにも借りを返さなければならなくなった。 ウォール街を勝ち抜いた男が、見返りを望まないはずはないからだ。
西川の行く先は、SMBCの増資時に外堀が埋められたと言っても過言ではない。 ウォール街にカネを運ぶ目的に作られた市場原理主義の走狗として小泉、竹中らと、好むと好まざるとに関わらず走り出さなければならなかった。

衆院予算委で委員の質問に答える日本郵政の西川善文社長(当時) 旧住友銀行時に調査部で磨いた企業分析力で安宅産業倒産の被害を最小限に抑えて頭角を現した西川。 役員になるまでは、イトマン事件、平和相互銀行事件など旧住友銀行の暗部の処理をこつこつと続けてきた。 頭取時の投資信託の販売増進などは表舞台に出すために施された化粧に過ぎない。 西川の凄みは、どす黒い不良資産を受け皿会社に移し、時間をかけて収益物件に替えるロンダリンで、政界やアングラ経済界に人脈を広げるうちに熟成されたのだ。
その仕事師、西川の最初の舞台が第三融資部だった。安宅が残した不良資産の処理部門として新設されたセクションで、西川は1976年6月に次長として着任した。
当時、安宅を吸収合併した伊藤忠商事が山梨県大月市のゴルフ場の土地を引き取らず問題物件となっていた。 西川に処理が任され、造園や芝張りなどをしていた甲府市の富士緑化などとともに再生されるスキームを作り上げた。 富士緑化の社長は金丸信の講演会「久親会」の幹部。ゴルフ場として復活させる過程で金丸やその秘書の生原正久らとの政界人脈が始まったといわれる。

■ブラック筋とも親交

西川は1997年6月に頭取に上り詰めたが、この前後にゴルフ場は、旧住友銀行が平和相互銀行を吸収合併した際に重要な役回りを演じた旧川崎定徳社長の故佐藤茂の側近の桑原芳樹率いる住宅信販のグループにも引き継がれている。 桑原は一時期、広域暴力団 稲川会の元会長、石井進がオーナーだったゴルフ場経営会社、岩間開発の社長も務めた人物。2002年に志村化工の株価操縦に関与し東京地検特捜部に逮捕されたブラック筋だ。
郵政会社に転じてからも、そうした人脈の危うさを指摘されることがあった。
防衛庁事件で逮捕された事務次官の守屋武昌らを接待した防衛商社、山田洋行社長の山田正志と関連会社社長の宮崎元伸の手打ちに同席して問題になったことがあった。 山田は第三融資部長時代に不良資産の処理でつながりがあり、その実績で栄転し支店長をつとめた丸之内支店の特別な取引先でもあった。

■いまでは情報分析不能に

米・ウォール街 西川はきわどい人脈をひきづりながら、バブルが崩壊した1991年に専務となり、イトマン事件の事後処理に当たった。 このとき、イトマンが住金物産に吸収合併されて残った不良資産のTK南青山ビルの売却で、後に購入したゴールドマン・サックスと密接に結びついている。 当時、住友のバルクセールといわれたが「仕事師」の人脈が国際的に広がった時期でもあった。
金丸信に関連する富士緑化、平和相銀に絡む桑原らを交えた西川の人脈は中間管理職時代からトップに上り詰めるまで続いた。 日本の金融機関の幹部は、汚れた人脈を引きづらないが、西川は、そうした人脈を出し入れしながら仕事を続けた点で稀有なバンカーだった。

頭取に就任したのは1997年。 野村証券や第一勧業銀行を舞台にした総会屋への利益供与事件など金融界は嵐のまっただ中だった。 西川の頭取就任の2日後に、第一勧業銀行の元会長、宮崎邦次が自殺している。 その年は暮れにかけて三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券が相次ぎ破綻した。その激動の時期にあった1998年7月、西川は大和証券との提携を決断。 共同出資で法人取引専門の証券会社、大和証券SMBCを立ち上げ、翌年に、さくら銀行との合併に踏み切った。 そうした実力は日本銀行協会会長を二回もしたことでもわかる。
ウォール街は小泉、竹中を使い走りとして日本の金融界を代表する国際的な仕事師となった西川を必要とした。 郵政会社でもかんぽの宿の売却で一括取引の相手のオリックス会長、宮内義彦との親密な関係が取りざたされるなどトップセールスに立った。 民主への政権交代を経て状況が変わっても郵政のトップに踏みとどまろうとして最後は事実上の放逐となったが、原理原則よりも「仕事師」としてのプライドが許さなかったようだ。 西川の後任に元大蔵事務次官、斉藤次郎が就き「天下り」と騒がれたが、ウォール街を交えた西川の仕事の暗部をえぐり出して整理するにはビッグネームが必要だったといわれる。
西川がいまだ三井住友銀行の顧問に復帰して金融界を睥睨しようとするのは、ウォール街や米政府の呪縛が背景にあるのかも知れない。 しかし、リーマンショックでブッシュもポールソンも退き、強欲資本主義の権化だった純粋な投資銀行はなくなった。
この情勢分析ができない西川の仕事へのこだわりに危うさを心配する住友OBは少なくない。